TCFDからSSBJへ:サステナビリティ開示担当者が知るべき違いと実務対応のポイント
コンサルティング部 サステナビリティシニアエキスパート
これまで多くの企業にとって、サステナビリティ情報開示の第一歩は「TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)」への対応でした。もしTCFD対応がサステナビリティ開示の基礎体力を作るトレーニングであったとすれば、次なるステップとして控える「SSBJ(サステナビリティ基準委員会)」基準への対応は、本格的なプロスポーツへの転向に例えられます。単に練習が厳しくなる(深化)だけでなく、プレーすべきフィールドそのものが格段に広がる(拡大)のです。
これは単なる基準の変更ではなく、TCFDで培った経験を土台に、企業価値を伝える「サステナビリティの物語」を、より説得力を持って投資家やステークホルダーに語るためのフレームワークへの「進化」と言えます。
この記事は、すでにTCFDやサステナビリティ開示の実務に携わっている担当者の皆様を対象に、SSBJへの移行によって具体的に何が変わり、何をすべきかを、戦略的な視点から明確に解説することを目的としています。
TCFDとSSBJの違い:押さえるべき2つの大きな変化
TCFDからSSBJへの移行は、単なる基準の置き換えではありません。これは、「深化」と「拡大」という2つの方向性を持つ進化です。この2つの変化を理解することが、企業に求められる対応の全体像を把握する鍵となります。
変化① 気候関連開示の「深化」:TCFD提言からSSBJ気候関連開示基準へ
これまでTCFD提言に沿って行ってきた気候変動に関する情報開示は、SSBJの「気候関連開示基準」によって、より詳細かつ具体的になります。
特に重要なのは、これらの情報が有価証券報告書の中で開示されるという点です。これにより、開示情報は財務諸表などの他の記載事項との文脈の中で理解されることが前提となります。投資家をはじめとする報告書の利用者が、気候変動のリスクや機会が企業の財務にどう結びついているのかを、より明確に理解できるようにすることが求められます。
変化② 開示トピックの「拡大」:気候変動から一般サステナビリティトピックへ:
TCFDが気候変動に特化していたのに対し、SSBJでは「一般開示基準」が設けられています。これにより、開示が求められるサステナビリティのトピックは気候変動以外にも大きく広がります。
具体的には、生物多様性、人権、労働安全衛生、地域コミュニティとの関係など、企業活動に関わる広範なサステナビリティ課題が対象となります。自社にとって重要なトピックを特定し、それらに関するリスクと機会を開示していく必要があります。
TCFDとSSBJの比較表
これら2つの変化をまとめると、以下のようになります。
比較観点 | TCFD | SSBJ |
気候関連開示の要求レベル | 気候変動のリスクと機会に関する基本的な開示枠組みを提示 | より詳細化・具体化され、有価証券報告書の文脈で財務的影響との関連性を明確に示すことが求められる(深化) |
対象となるサステナビリティトピックの範囲 | 気候変動が中心 | 気候変動に加え、生物多様性や人権など、他のサステナビリティトピック全般も対象となる(拡大) |
この「拡大」という変化は、実務担当者にとって「気候変動以外のトピックに、具体的にどうアプローチすればよいのか」という新たな問いを投げかけます。そのプロセスは、大きく3つのステップに分解することができます。
【拡大編】SSBJ一般開示基準と気候変動以外のトピックへの対応プロセス
SSBJでは、気候変動以外のサステナビリティトピックについても、体系的なアプローチで情報を開示することが求められます。
対応プロセスの全体像:3つのステップ
気候変動以外のトピックに対応するためのプロセスは、大きく以下の3つのステップで構成されます。これは、広範な可能性の中から重要なものを選び抜き、報告するという一連のワークフローです。
1.リスク及び機会の識別
まず、自社を取り巻くサステナビリティ関連の論点の中から、事業の見通しに影響を与えうるリスクと機会を特定します。
2.重要性がある情報の識別
次に、特定したリスクと機会に関連して重要な情報(マテリアルな情報)を整理します。
3.情報の収集・整理・開示
最後に、絞り込んだ重要情報について、社内外のデータを収集・整理し、ガバナンス体制に則って体系的に集計・開示します。
1.リスクと機会の識別 - 何を参考にすべきか?
企業が自社にとって重要なサステナビリティトピックを識別する際、SSBJは参照すべき情報源を定めています。
- 必ず参照・検討が必要なもの
SASBスタンダード(米国サステナビリティ会計基準審議会)
77の産業別に、財務的な影響を与えうるサステナビリティトピックを整理した基準です。自社が属する産業のトピックを参照し、自社への適用可能性を必ず検討する必要があります。
重要なのは、検討の結果、特定のSASBトピックを適用しないと結論付けた場合でも、その判断プロセスと理由を内部で文書化しておくことです。これにより、監査対応や担当者変更時の継続性が担保されます。
任意で参照・検討できるもの
CDSBフレームワーク
水関連や生物多様性関連の開示に関するガイダンスです。これらのテーマが自社にとって重要だと考えられる場合に参考にできます。
同業他社や同じ地域で事業を営む企業の開示例(ベンチマーキング)
競合他社などがどのようなトピックを重要と捉え、開示しているかを参考にすることも有効なアプローチとして認められています。
2.重要性がある情報の識別 :「企業の見通しに影響を与える」とは?
SSBJの基準で繰り返し使われる「企業の見通しに影響を与えると合理的に見込みうる」という言葉は、開示対象を判断する上で非常に重要です。この言葉は、3つの要素に分解して理解することができます。
「企業の見通し」とは何か?
これは、企業の財務的な側面を指します。具体的には、短期・中期・長期にわたるキャッシュフローの金額や時期、資金調達能力、資金調達コストなどへの影響を意味します。
「影響を与える」とは何か?
自社が自然資源などに依存することで受ける影響だけではありません。例えば、自社の事業活動が環境や社会に与えた影響が、巡り巡って評判リスクや規制強化といった形で自社の財務に跳ね返ってくるケースも含まれます。多角的な視点での検討が必要です。
「合理的に見込みうる」とは何か?
これは、企業の主観だけでなく、客観的な視点で判断することを意味します。
(例)アパレル産業のケース
ある企業が「当社の調達先は人権リスクの低い国に限定しており、サプライヤーの顔もよく知っているから大丈夫だ」と主観的に判断していたとします。しかし、投資家など外部の第三者から見れば、「アパレル産業全体がサプライチェーンにおける人権リスクを抱えている」と客観的に見なされる可能性があります。
このような場合、たとえ自社ではリスクが低いと考えていても、「合理的に見込みうる」リスクとして認識し、検討の対象とする必要があります。
この客観的な基準は、もはや「自社はリスクが低い」という内部評価だけでは不十分であることを意味します。担当者は、たとえ自社の事業活動から遠いと感じられるリスクであっても、投資家や外部ステークホルダーが自社の属する業界全体にどのようなリスクを認識しているかを能動的に監視し、記録することが求められます。
3.情報の収集・整理・開示 : 開示可能な形に整えるためのプロセス
最後に、重要と判断したリスクや機会について、開示に必要な情報を収集・整理し、有価証券報告書に記載できる形へ整えていきます。ここでは、どの部署がどのデータを保有しているのか、どのような方法で収集するのかといった実務的な手順を明確にすることが重要です。また、データの出所や算定方法、前提条件を整理し、社内のレビュー・承認プロセスを通じて情報の正確性と一貫性を担保します。
さらに、リスク管理やガバナンス、財務情報など、企業内の他の開示項目との整合性を確認し、報告内容が全体として矛盾なく統合されているかを点検します。こうしたプロセスを経ることで、ステップ1・2で特定した論点が、投資家にとって理解しやすい「開示情報」として完成します。
開示トピックの「拡大」への対応プロセスを理解したところで、次に、多くの企業が既に取り組んでいる気候関連開示を、SSBJの下でどのように「深化」させていくべきか、その具体的な変更点を見ていきましょう。
【深化編】TCFDの4つの柱から進化するSSBJ気候関連開示のポイント
SSBJの気候関連開示基準は、TCFDの4つの柱(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標と目標)の枠組みを踏襲していますが、各項目でより詳細な情報の開示を求めています。
ガバナンス
従来の体制図や責任者の説明に加え、例えば下記のような項目も挙げられています。
スキル・コンピテンシー
取締役会や経営層が、気候変動というテーマを監督・経営判断するために、どのようなスキル、コンピテンシー(専門的能力)、経験を有しているかを具体的に説明する必要があります。
報酬との関連
気候変動に関する取り組みが役員報酬(インセンティブ)にどのように関連付けられているかを開示することが求められます。
これらの要求事項の多く、特に取締役会のスキルや報酬との関連については、既にCDP質問書に対応している企業にとっては馴染み深いものであり、既存のプロセスを活用できる可能性があります。
戦略
TCFDからの最も大きな進化が求められるのがこの「戦略」の項目です。なぜなら、ここはサステナビリティ活動と財務的成果を結びつける要であり、SSBJの有価証券報告書への統合という目的の核心を担うからです。
リスク・機会ごとの詳細開示
特定した気候関連のリスクと機会それぞれについて、「将来の財務的影響はどうか」「それに対してどのような対応策を講じてきたか、また今後講じる予定か」などを個別に記述する必要があります。
財務的影響の具体化
リスクや機会がもたらす財務的影響を、単なる金額の試算だけでなく、将来の投資計画やキャッシュフローなどにどう影響するのかといった、財務諸表の文脈で具体的に示すことが求められます。SSBJは定量化を求めていますが、不確実性が高い場合には定量化が常に可能とは限らないことも認めています。その場合は、定量的なデータを開示できない理由を明確に説明することなどが求められます。
気候レジリエンスの明記
複数のシナリオ(例:1.5℃シナリオ、4℃シナリオ)を分析した結果として、レジリエンスを記載することが求められます。望ましくは「どのシナリオにおいても、当社のビジネスモデルと戦略は持続可能(レジリエント)である」という結論を明確に記述することが出来れば投資家への良い訴求となります。
リスク管理
この項目では、TCFDの考え方を引き継ぎ、特定した気候関連リスクを、ガバナンス体制の中でどのようなプロセス(手順)を経て識別、評価、管理しているのかを、より具体的に説明することが求められます。例えば、リスクを評価するために用いた具体的な基準や、担当委員会によるレビューの頻度などを詳述することが考えられます。
指標と目標
担当チームは、データ収集体制の強化に備える必要があります。SSBJは従来のGHG排出量(Scope 1~3)の開示に加え、例えば下記のような指標も開示対象として挙げています。
インターナルカーボンプライシング(内部炭素価格)の適用状況
投資判断などに社内独自の炭素価格をどのように利用しているか、その価格などを開示します。
産業別の指標
SASBスタンダード等で示されている、自社の産業に特有の指標。
これらの詳細な開示要求に対し、いつから、どのように対応していく必要があるのでしょうか。最後に、実務担当者が押さえておくべき適用スケジュールと第三者保証のポイントを解説します。
実務上の注意点:SSBJ適用スケジュールと第三者保証制度
SSBJ基準の適用は、金融審議会の議論に基づき、企業の規模に応じて段階的に進められる見込みです。また、開示情報の信頼性を担保するための第三者保証制度も導入されます。
適用対象企業と段階的スケジュール(有価証券報告書ベース)
プライム市場上場企業を対象に、株式時価総額に応じて段階的に適用が開始される見込みです。
時価総額 | 適用開始時期(見込み) |
3兆円以上 | 2027年3月期の有価証券報告書から |
1兆円以上3兆円未満 | 2028年3月期の有価証券報告書から |
5000億円以上1兆円未満 | 2029年3月期の有価証券報告書から(※引き続き検討) |
※時価総額5000億円未満の企業への適用は、数年後を目途に結論が出される予定です。
第三者保証の範囲・開始時期と、今から準備すべきポイント
SSBJに基づく開示には、第三者による保証が義務付けられる方向で議論が進んでいます。実務担当者が当面押さえておくべきポイントは以下の通りです。
保証の開始時期: SSBJ基準が適用される翌期から義務化される見込みです。
保証の水準: 当面は、より導入しやすい「限定的保証」から開始される予定です。
当面の保証対象: まずは以下の3項目に保証対象が限定される見込みです。
GHG排出量(Scope 1, 2)※当面、Scope 3は対象外となる見込み
ガバナンス
リスク管理
保証対象が当初、GHG排出量の実績値(Scope 1, 2)とガバナンス・リスク管理プロセスに絞られている点は、規制当局からの明確なメッセージと捉えるべきです。まずはサステナビリティに関するデータとプロセスの根幹部分について、監査可能な堅牢な基盤を構築すること、また、サステナビリティに関しても経営のガバナンスに組み込み、手順化したプロセスでリスク管理を実施することが重要である、、という意図が読み取れます。
5. まとめ:TCFDの経験を活かし、SSBJ対応の準備を始めよう
本記事で見てきたように、SSBJへの対応は全く新しいことへの挑戦ではなく、TCFDの延長線上にある「進化」です。TCFDで培った知見や社内体制は、SSBJという新たな舞台で、より説得力のある企業価値の物語を語るための強固な土台となります。
実務担当者として、今から以下の2つのアプローチで準備に着手することをお勧めします。
守りの対応:『深化』へのギャップ分析
コンプライアンスを確実にするため、自社の既存のTCFD開示内容を、本記事で解説したSSBJのより詳細な要求事項、特に「戦略」や「指標と目標」の項目と照らし合わせ、どこにギャップがあるかを把握する。
攻めの対応:『拡大』に向けたトピック探索
自社が属する産業についてSASBスタンダードを参照し、気候変動以外にどのようなサステナビリティトピックが指摘されているかを洗い出し、社内で議論を始める。
SSBJへの移行は、サステナビリティを経営アジェンダとして取り込む良い契機となります。早期に準備を開始し、計画的に対応を進めていきましょう。
こうした検討を進めるうえで、具体的な進め方や支援をご希望の方は、「ゼロボード コンサルティングサービス紹介資料」をご覧ください。TCFD・CDP・SBT・第三者検証など、SSBJに直結する多様な支援内容を網羅しており、社内の体制整備やギャップ分析、開示文書の検討など、貴社の状況に応じたご支援が可能です。


【参考】
サステナビリティ基準委員会(SSBJ)資料:SSBJ基準の概要
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/sustainability_disclose_wg/shiryou/20250421/01.pdfSSBJ補足文書 教育的資料 「サステナビリティ関連のリスク及び 機会、並びに重要性がある情報の開示
https://www.ssb-j.jp/jp/wp-content/uploads/sites/6/jponly_20250327_07.pdfSSBJサステナビリティ開示基準 サステナビリティ開示基準の適用
https://www.ssb-j.jp/jp/wp-content/uploads/sites/6/jponly_20250305_01.pdf
SASB Standards Navigator Apparel, Accessories & Footwear
https://navigator.sasb.ifrs.org/sector/CG/industry/CG-AA?industry_tab=activity-metricsCDSB フレームワーク 水関連開示のためのCDSBフレームワーク適用ガイダンス
https://www.cdsb.net/sites/default/files/cdsb_waterguidance_single170819_disclaimer.pdfSSBJハンドブック 識別したリスク及び機会に関する情報の重要性の判断
https://www.ssb-j.jp/jp/wp-content/uploads/sites/6/20250829_02.pdf
SSBJサステナビリティ開示基準 気候関連開示基準https://www.ssb-j.jp/jp/wp-content/uploads/sites/6/jponly_20250305_03.pdf
金融審議会 サステナビリティ情報の開示と保証のあり方に関する ワーキング・グループ 中間論点整理
https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20250717/01.pdf
